イリイチは、社会が産業化していくなかで、私たちが自分たちの生活を自分たちで営む力が、専門家や制度に移っていくことを問題にしています。この本を読んでいると、葬式の仕出し料理や、漬物をめぐる制度の変化も、単なる「昔と今の違い」ではなく見えてきます。
便利になったことで、私たちは何を得たのか。
同時に、何を自分たちでできなくなったのか。
そして、その変化によって、郷土の人たちが一緒に暮らすための関係は、どのように変わったのか。5回の読書会を通して考えたのは、そんなことでした。ここでは、イリイチの考えをそのまま郷土に当てはめるのではなく、実際の暮らしの中にある料理や葬式、漬物を手がかりにして、「郷土の分水嶺」とは何なのかを考えてみたいと思います。
イリイチのいう「二つの分水嶺」とは、社会のあり方が大きく変わる境目のことです。イリイチは、産業社会の変化を考えるとき、人が自分たちの生活に必要なものを、どのような関係の中でつくり、支えているのかに注目しています。
第一の分水嶺を越える前には、生活に必要なことの多くが、人びとの身近な関係の中で行われていました。食事をつくる、子どもを育てる、家を建てる、病人を世話する。そうしたことは、家族や近隣、地域の人たちが、それぞれの経験や技術を持ち寄りながら行っていました。
ところが、産業化が進むと、こうした生活の営みの一部が、専門的な仕事として切り分けられていきます。料理をする人、医療をする人、教育をする人、家を建てる人など、生活に必要なことを専門家や専門的な制度が担うようになる。
そして、さらにその先にあるのが、イリイチのいう「第二の分水嶺」です。
ここでは、単に専門家が増えるというだけではありません。私たちが何を必要とするのか、その「需要」そのものが、制度によって形づくられるようになります。
つまり、「自分たちでできることを、専門家に任せるようになる」という変化だけでなく、「専門家や制度が提供するものを、私たち自身が必要不可欠なものだと思うようになる」という変化です。
第2回の会読会では、この部分について、次のような発言がありました。
(第2回目抜粋) 「制度は私たちの需要をますます形作るようになっているだけではない。」とあります。さらに、「諸制度が生産できるものを需要するようになると、やがて私たちはそれなしにはやっていきないと信じるに至る」という話があります。これが第二の分水嶺の話だと思いました。
第4回の会読会では、そこからさらに、「では、産業社会の中で、どこまでを制度に任せるのか、その限界を誰が決めるのか」という話になりました。
(第4回目抜粋) A世代というものがあって専門化して、すると産業化社会で発展していって諸制度が需要を形作るという話が前にもありましたけど、そういったふうに第二の分水嶺を超えていって産業化社会が進んでいく。その産業社会の中でもある一定の限界値みたいなものは、科学っていうものが決めるよりも、市民一人一人が検討し合いながら決めていきましょう、みたいな感じのことを僕はイリイチは言ってるのかなと思っています。それは世代間が変わっていくと、前提とする暮らしみたいなものが変わるじゃないですか?