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第五回では、生活を使いこなす技術がその人の範疇の中でどのように継承され、変化し更新されていくのかについては、十分に書かれていないのではないかという問いが残った。そして、コンヴィヴィアリティとは「自分が暮らしている生活をどう使いこなし、その生活条件に対してどうやって介入していくのか。」と読んだ。ここから郷土を考えれば、そこには寄り合いという集まりがあった。それは雑談でもあったのかもしれない。範疇を形成するには、縁を動力とした、いつまでも続くような寄り合いという装置があり、一方、オンライン読書会では、zoomの制約によって、その装置が強制的に停止させられる。しかし、暮らしの一部となったオンラインの向こうにも、「顔を向けたい」という人の態度が間を埋めていく。それは、場所や装置が変わっても、人と人の間に生まれた縁は残っていくのだと、考えさせてくれた。

「分水嶺から時間軸へ」

おはようございます。

おはようございます。

どうやって始めようかね。じゃあ最近どうですか?

最近ですか、なんだろう、、。

(笑い)

このイリイチの話で最後だよね。

そうですね。

最初の頃と最後で、読書にかける時間がだいぶ減ったんですよね。いいのか悪いのか。

それはもうちょっと聞いてみたいです。どういう読みになっていったんですか。

最初は「コンヴィヴィアリティって何なんだろう」っていうところから始まって、まず「二つの分水嶺」から入ってコンヴィヴィアリティのやつ一回読んでみると、分水嶺の構造でコンヴィヴィアリティみたいなものが書き進められているんだみたいなものに、興味が湧いて読んでみて、第一回と第二回を読んだ段階で何か言いたいことなのかは、話しながら擦り合わせができてきた。3回目4回目はこの読書会のコンヴィヴィアリティを前提に、そこまでブレることなく読めるようになった。だから読書量が少なくなったっていう感じですね。

イリイチがこの章で言ってることって、本当に繰り返しをしてるというか。違う事例を引っ張り出して同じこと言ってる感じなので、紐付けやすくなりましたし、なんというか真面目に取り合わなくなりました。

「まあまあこんな感じだよね」は僕も強いです。そんな中で5回目を読みながら振り返っていたのは、改めて「コンヴィヴィアリティって何なんだ」みたいな話に入ってくと思うんですけど、1回目2回目と読み進めていって分水嶺の構造だと、第1の分水嶺があって第2の分水嶺があって。さらに、3回目4回目読んでいって前回の図で、世代によって前提となる社会が変わっていくっていうそういう時間の流れも立体的に見えてきました。「自立共生的な再構築」を読んで一時集団にどう貢献するのかというところがとても興味深かったです。つまり、自分が暮らしている生活をどう使いこなし、その生活条件に対してどうやって介入していくのか。そこがこの本の焦点としてあったなっていうのが主な感想です。

それを踏まえて、前回の「既存の制度を変更する権利」の必要性は、今回改めて重要だなと思いました。できる・できないは置いておくとして、その権利が必要だということですね。

5回目の部分を話そうとするとやっぱり繰り返しの部分が多いから周辺を話さざるを得なくなるんですけど、今回特徴的だったのは建築・家の話が出てきたことでした。イリイチの主張の軸は、いろいろな道具が専門的になってしまうことで、一見それは自由だと思われていて、技術の革新を伴いながら産業的にも発展して、物質的にも経済的にも豊かな自由を形作って、それが需要を生み出し、需要を満たしていく産業的発展が加速していく。でも実はそれって自由ではなくて、それぞれの専門家の手に任せずに、市民がその道具を使えるっていう状態とそのための制限が自由のために必要だよねっていう主張だと思うんですね。